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市川猿之助の屋号の読み方は澤瀉屋(おもだかや)!名前の由来は薬屋だったから!

2023年5月18日の文春報道などにより注目されている、歌舞伎役者の市川猿之助(いちかわ・えんのすけ)さんですが、変わった読み方の澤瀉屋=『おもだかや』という屋号を使っていますよね。

なぜ『澤瀉屋(おもだかや)』と呼ばれるようになったのでしょうか?
そもそも“澤瀉(おもだか)”とは何なのでしょうか?
色々と知りたくなりますよね。

この記事では『澤瀉屋(おもだかや)』という歌舞伎の屋号についてご紹介していきます!

この記事で分かること
  • 市川猿之助さんの屋号『澤瀉屋』の読み方!
  • 市川猿之助さんの屋号『澤瀉屋』の由来!
  • 『澤瀉屋』の襲名方法!

市川猿之助の屋号の読み方は澤瀉屋(おもだかや)

澤瀉屋の家紋

市川猿之助さんの屋号『澤瀉屋』ですが、何て読むのかわかりません!

『澤瀉屋』は『おもだかや』と読みます。

“澤瀉”=”おもだか”って何なの?

オモダカ写真

澤瀉(おもだか)というのは植物で、オモダカ科の多年草です。
池や沼でよく見られる草です。
3つの矢じり型の葉を持っていて、夏に白い花が咲きます。

澤瀉(おもだか)は漢方では薬草として重用されていた!

サジオモダカ 

この澤瀉(おもだか)ですが、特にオモダカ科の一種である“サジオモダカ”は現在も漢方の材料として重用されています。
身体の中の水分を調整する作用があるとされており、尿の出を改善したり、むくみなどにも効果があるそうです。

市川猿之助の屋号『澤瀉屋』の由来は薬屋だったから!

江戸時代の薬屋

澤瀉(おもだか)が薬草なのはわかったけど、どうして澤瀉(おもだか)が市川猿之助の屋号になったの?

市川猿之助の屋号が『澤瀉屋(おもだかや)』なのは、初代市川猿之助が副業で薬屋をやっていたことが由来だとされています。

江戸時代の1708年に奉行所から「歌舞伎役者は良民」と認められ、お金も持っていた歌舞伎役者たちは、表通りに大きな家を構えることができました。

しかし、いきなり大きな家を構えると世間の反発もあるだろうということで、副業でやっていた商売を続け、商店として家を建てました。
それ以降、歌舞伎役者同士はその商店の名前=屋号で呼び合うようになったそうです。

初代市川猿之助の実家は”澤瀉(おもだか)”を扱う薬屋を営んでいたので、『澤瀉屋(おもだかや)』を名乗るようになったと言われています。

市川猿之助の屋号『澤瀉屋』は歴史が浅くて襲名方法が特殊!

市川猿之助さんの屋号『澤瀉屋』は襲名方法が特殊なことで有名です。
それには『澤瀉屋』の歴史が関係しています。

『澤瀉屋(おもだかや)』の祖である初代市川猿之助は1855年に生まれています。
1890年に市川猿之助を名乗り、『澤瀉屋(おもだかや)』が始まりました。
300年以上続く屋号もある中、『澤瀉屋(おもだかや)』の歴史は浅い部類だと言えます。

初代市川猿之助とは?

初代市川猿之助は元々歌舞伎役者の子ではなく、歌舞伎の立師(役者に立ち回りを指導する人)の子でした。

幼少期に歌舞伎役者の十三代目市村羽左衛門に弟子入りし、成長すると九代目市川團十郎の門下に入って歌舞伎役者になりました。

その後、実力を認められた初代市川猿之助でしたが、九代目市川團十郎の死去の際、市川宗家の跡継ぎいなかったため、二代目市川段四郎を襲名し、宗家不在の市川一門を支えます。

『初代市川段四郎』も『初代市川團十郎』の門下で、実力を認められて出世をした人なの。

『市川猿之助』をどうやって継承するか?

一方、彼は自身が築き上げた『猿之助』という名前への愛着があり、長男に『猿之助』を継がせました。

しかし今度は『段四郎』を継がせることができません。
そこで交互に一代ずつ『猿之助』と『段四郎』を継承するという、歌舞伎界では変わった襲名の方式が現代まで続いています。

『市川猿之助』も『市川段四郎』も、両方『澤瀉屋宗家』なのよ。

まとめ|市川猿之助の屋号の読み方は澤瀉屋(おもだかや)!名前の由来は薬屋だったから!

まとめ

市川猿之助の屋号『澤瀉屋』の読み方は『おもだかや』

“澤瀉”とは薬草のことで、『澤瀉屋』の由来は初代市川猿之助の実家の家業が薬屋だったから

澤瀉屋一門の襲名方法は歌舞伎界では珍しい

この記事では以上のことを紹介しました。

澤瀉屋の一門は、歌舞伎界の伝統にとらわれない『スーパー歌舞伎』を行うなど、多くの話題を作り続けてきました。

今後の澤瀉屋一門の復活に期待したいですね!